南山手秘話 | グラバー園公式ウェブサイト
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南山手秘話

INTRODUCTION

グラバー園名誉園長
ブライアン・バークガフニ

1859年長く続いた鎖国時代に終わりを告げました。
安政の開国に合わせて続々とやってくる外国人の為に、南山手、東山手地区は「外国人居留地」として造成されました。
東山手は主に学校や領事館などが建てられ、南山手は洋風住宅や教会などが佇む優雅な多国籍居住地へと発展しました。
この南山手秘話ではグラバーやグラバー園に限らず南山手の様々な人物やエピソードを紹介していきます。

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EPISODE 1

一本松の邸宅

スコットランド人事業家、トーマス・グラバー(1838~1911)の旧邸は日本における最古の洋風建築として建築当初からそのままの場所に建っている。ちょうど150年前の文久3年(1863)、天草の棟梁の小山秀之進によって建設され、まるで貿易と国際交流をつかさどる新時代のお城のように鍋冠山の中腹から長崎港を見下ろした。建築当初はL字型の平面であったこの木造住宅は、端部が独特な半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱、菱型に組まれた格子の天井をもつ広いベランダを誇る。屋根は日本瓦で覆われ、壁は日本の伝統的な土壁であった。一方、中は典型的な西洋風の造りになっていて、前方にはリビングルームとダイニングルーム、奥には英国式暖炉のある寝室と厨房や倉庫などがあった。旧グラバー住宅のすぐそばで大きな松の木がそびえ立っていた。この松の木にちなんでグラバーは自宅のことを「IPPONMATSU(一本松)」と呼び、家の北側部分に松の樹幹を取り囲む小さな温室を造った。威厳のある古木は後に病気にかかり枯れ、明治38年(1905)に切り倒されてしまった。波瀾万丈の歴史を歩んできた旧グラバー住宅。現在は、グラバー園の目玉として独特な雰囲気を漂わせ続けている。彫刻を施したマントルピース、手描きの有田焼タイル張りの暖炉、また分厚い床板等が人語を解し、すべてを語り始めたとしたら、どのような歓喜と悲哀の物語が聞けるのだろうか――。

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EPISODE 2

グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱

グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱フリーメイソンは、中世のイギリスで始められた友愛団体だが、長崎におけるロッジ(集会所)は、明治18年(1885)に発足した。三菱長崎造船所に勤めるイギリス人たちが会員の大半を占め、初代グランドマスター(ロッジ長)に選ばれたのは、三菱が長崎造船所の初代マネージャーであったスコットランド人のジョン・コルダー(John Calder)であった。コルダーの住宅は、現在は愛知県の明治村に移築保存されてる南山手25番館であった。 明治22年(1889)、会員たちが大浦47番地の建物の2階にロッジを移してフリーメイソンのマークを刻んだ門柱を入口に設置した。ロッジは大正8年(1919)に活動を中止し、大浦47番地の洋風建築も戦後に取り壊された。表の門柱だけが保存され、旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にあるテニスコート跡に移された。昭和46年(1971)にグラバー園の整備が始まると、この門柱は旧リンガー住宅の真横に移され、現在に至る。門柱にはフリーメイソンの理想である平等と正義の象徴である定規とコンパスがはっきりと見て取れる。 トーマス・グラバーもフレデリック・リンガーもフリーメイソンに加入した痕跡はないが、長崎の国際墓地には今も数人の会員が眠っており、彼らの墓標には門柱と同じシンボルマークが刻み込まれている。

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EPISODE 3

グラバー園とヒッチコック監督~知られざる接点

グラバー園に現地保存されている3棟の重要文化財の一つに「旧オルト住宅」がある。元の主は幕末の茶貿易などで活躍したイギリス人商人ウィリアム・オルト(William Alt)である。昭和60年(1985)、オルト家の血をひく人物が久しぶりに長崎を訪れた。ひ孫にあたるモンゴメリー子爵夫人(旧姓テッサ・ブラウニング)である。先祖の住宅を見たいという思いにかられて一路長崎を目ざしたようだが、長崎訪問の際、同夫人の母親は有名な小説家ダフネ・デュ・モーリア(Daphne du Maurier)であることが初めて長崎で知られることとなった。ダフネ・デュ・モーリアは、明治40年(1907)ロンドンで生まれ、まだ24歳だった昭和6年(1931)に出版した処女作「愛はすべての上に」(The Loving Spirit)がいきなりベストセラーとなった。その後ウィリアム・オルトの孫に当たる軍人のフレデリック・ブラウニング(Frederick Browning)と結婚した彼女は、次々とベストセラー小説を発表して話題を呼んだ。映画化された小説の中で最も有名なのは、「レベッカ」(Rebecca)であろう。「風と共に去りぬ」で名声を得たデイビッド・O・セルズニックがプロデュースして昭和15年(1940)に映画化された「レベッカ」は、映画監督アルフレッド・ヒッチコックのアメリカデビュー作となった。同年のアカデミー賞の作品賞に輝いたこの映画は、今尚、モノクロ映画の名作として絶賛されている。ヒッチコック監督の名作ホラー「鳥」(TheBirds)の原作者もダフネ・デュ・モーリアである。

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EPISODE 4

キリン、狛犬とグリフィン

旧グラバー住宅の温室の中を通ると一対の狛犬が目を引く。その説明板には、「この狛犬は今日のキリンビール社のラベルのもとになった」と書いてある。トーマス・グラバーとその仲間は明治18年(1885)、キリンビールの前身会社であるジャパン・ブルワリ・カンパニーを横浜で創設したのは確かだが、ビールのシンボルに麒麟を選んだ経緯は実は不明である。現在のラベルのデザインは明治22年(1889)に登場し、麒麟はライオンのような黄色のたてがみと、わき腹に沿って、銀色に光るしま模様が施されていた。麟麟の顔のまわりを一周して、たてがみの中へと消えて行く大きな黄色の口ひげも加えられたが、これは太い口ひげをトレードマークにしていたトーマス・グラバーの貢献に敬意を表してのことだと伝えられている。しかし、それが事実であったとしても、麒麟がそもそもなぜ採用されたかはわからない。グラバーが自宅の狛犬でなく、ロンドン郊外のチズウィックで1845年からビールを醸造していたフーラー社のロゴからヒントを得たという可能性がむしろ高いと思われる。この会社はシンボルマークに麒麟と同じような伝説の奇獣であり、ライオンの胴体に鷲の頭と羽を持つ「グリフィン」を使っており、今でもイギリスで人気のある「ロンドンプライド」などのビールを作り続けている。

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EPISODE 5

南山手の「バブーシュカ」

旧グラバー住宅のダイニングルームには大きな木製のディナーテーブルがある。これは、南山手に住んでいたクリスティーナ・シェルビニナ(ChristinaScherbinina)女史の死後、グラバー園に寄贈されたものである。クリスティーナの父は、明治2年(1869)頃に来崎したアフリカ系英国人、リチャード・フォード(RichardFord)で、母は日本人女性の沢チワ。フォードは荷揚業や仲買業を営み、雨のドンドン坂沿いの南山手22番地に洋風住宅を建てた。フォードは明治36年(1903)に他界し、坂本国際墓地に埋葬された。妻チワは昭和10年(1935)に亡くなり、夫のとなりに葬られた。一人娘のクリスティーナは幼児期からウラジオストクの学校で学んだ。卒業後もその地に残り、ロシア人船長のシェルビニンと結婚して一男一女の母となった。クリスティーナは長い間ウラジオストクに住んでいたが、夫の死を機に長崎へもどり実家の南山手22番館に居を構えた。ロシア正教の信者だったクリスティーナは、長崎を訪れるロシア人たちを家で接待し、彼等から「南山手のバブーシュカ」として慕われた。昭和41年(1966)に亡くなったときは、多くのロシア人や日本人が葬儀に参列したという。現在は坂本国際墓地で両親と並んで永眠している。旧グラバー住宅のディナーテーブルを見ると、ロシアの家庭料理を楽しむ在りし日のロシア人たちが目に浮かぶ。※バブーシュカ:女性が頭を覆うスカーフの事。転じてロシアでは老夫人や祖母の事を親しみを込めてバブーシュカと呼ぶ。

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EPISODE 6

長崎最初の高級ホテル「ベル・ビュー・ホテル」

慶応元年(1865)発行の外国人名簿「ジャパン・ディレクトリ」によると、長崎居留地には3軒のホテルが存在していたことが示されている。それは、大浦25番地の「コマーシャル・ハウス」、同26番地の「オリエンタル・ホテル」、南山手11番地の「ベル・ビュー・ホテル」である。いずれも日本最初期の西洋式ホテルだが、前者2軒は居酒屋を備えており、「ベル・ビュー・ホテル」のみが婦人や子供を迎える高級ホテルであった。元イギリス領事館巡査の妻、メアリー・グリーン(Mary Green)夫人により経営されていたこのホテルは、中庭をもつ四角形の木造2階建て建築で、外国人来訪者が上陸する長崎税関の第6番波止場の上に建っていた。イギリス人旅行者N・B・デニーズ(N.B.Dennys)は同3年(1867)の記述の中で次のようにベル・ビュー・ホテルについて言及している。「もてなしのよく行きとどいたこのホテルは、来訪者に親しまれていた。夕食は1ドルで済ますことができ、一週間滞在すればすべてを含めて21ドルである。湾と街の美しい景色を見渡すことができる」。ベル・ビュー・ホテルは長崎を代表する西洋式ホテルとして営業を続けたが、日露戦争後、長崎の国際貿易港としての繁栄は衰退し、旧外国人居留地のホテルは次々と姿を消していった。大正9年(1920)、長崎最古の高級ホテルであったベル・ビュー・ホテルもついに廃業した。グラバー園へと続く坂道の左手のベル・ビュー・ホテル跡地には、現在、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルが建っている。


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EPISODE 7

ロシア語新聞「ヴォーリヤ」

日露戦争中に閉館されていた南山手5番地のロシア領事館が、戦後復活し、長崎を訪れるロシア人も再び急増した。「東洋日の出新聞」によると、明治39年(1906)1月から9月の間、月平均328人のロシア人が長崎税関の波止場を通過した。その多くは避暑地の雲仙へ行く裕福なロシア人たちだが、南山手に居を構える人も少なくなかった。同年、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎に派遣され、この街における活動を再開した。教会堂は南山手の旧ロシア海軍病院の敷地内に開設されていたが、大正6年(1917)に首司祭アントニイ高井神父名義になり、長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。 日露戦争後に長崎に住み着いたロシア人の一人に、医師で政治活動家のニコライ・ラッセル(Nicholas Russel)がいる。「在長崎露国革命党首領」として同僚に慕われていた彼は、明治39年(1906)4月から日本抑留のロシア人捕虜やそのほかのロシア人に革命を宣伝するために「ヴォーリャ」(Воля)と題するロシア語新聞を南山手12番地で発行した。同新聞は翌年春まで発行を続け、その後に起きたロシア革命の一翼を担った。ラッセルは同43年(1910)に長崎を離れてフィリピンに活動の場を移したが、その後も度々長崎を訪れて親交を深めた。その後、彼は、日本人女性大原ナツノとの間に生まれた長女フローラと共に中国の天津に移住し、昭和5年(1930)、波乱万丈の生涯を閉じた。2013年10月


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EPISODE 8

南山手とミッション・スクール

長崎居留地に開設された最初のカトリック系ミッション・スクールは聖心女学校と海星学校である。フランスに本部を置くショファイユの幼きイエズス修道会の修道女たちは明治13年(1880)に来崎し、翌年、大浦5番地に修道院とセンタンファンス(聖なる子どもたち)と名付けられた子どもたちの家を開設した。明治24年(1891)、宗教や国籍を問わず日本人と外国人がともに寄宿した「聖心女学校」を同地に開設し、これは「フランス学校」とも呼ばれ、明治期の長崎では唯一のカトリック系女学校であった。聖心女学校は、同31年(1898)、南山手町16番地に建てられたロマネスク様式赤煉瓦造りの新しい建物に移転した。現在はマリア園の所在地となった旧校舎は、明治期の香りただよう長崎の名所となっている。 一方、長崎居留地初のカトリック系男子校は、明治25年(1892)1月、マリア会のフランス人修道士たちが南山手31番地に創設した海星学校である。校舎は、ロバート・N・ウォーカー船長やその他の外国人住民がかつて居を構えていた煉瓦造りの豪邸だった。その後、同校は長崎港を見下ろす東山手1番地の高台(現在地)に移転した。明治31年(1898)に完成した荘重なロマネスク様式の校舎は、長崎居留地に新たな歴史と文化を加えた。一方、南山手31番地の建物は長崎に支局を持つ大北電信会社が買い取り、太平洋戦争の勃発までデンマーク従業員の住宅として利用されていたが、戦後に取り壊された。2013年11月


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EPISODE 9

福田サトの運命

日本郵船会社(NYK)の船長として活躍していたロバート・N・ウォーカーは、明治19年(1886)に神戸~ウラジオストク間の航路に就任するために、日本人妻福田サトと4人の子供を連れて神戸から南山手31番地の邸宅に移住した。長崎でも3人の子供が生まれ、9人の大家族となった。  しかし、明治24年(1891)、ウォーカー船長が指揮する高千穂丸は対馬南部の海岸に座礁してしまった。彼は事故の責任をとり辞職し、家族を長崎から引き上げて英国の故郷メリーポートへ帰った。あまりにも大きすぎたストレスのせいか、サトは36歳の若さで急病に倒れ、帰らぬ人となった。  ウォーカー船長は愛妻の死を惜しみながらも当時9人にまで増えていた子供たちを連れて日本へ戻り、長崎居留地に荷揚げ業の「R.N.ウォーカー商会」を立ち上げた。彼は明治41年(1908)にカナダへ移住したが、90歳で他界するまで再婚することはなかった。  長崎に残った次男ロバート・ウォーカー二世は、R.N.ウォーカー商会を継承して地域経済の発展に寄与していった。彼が大正4年(1915)に購入した南山手乙28番地の洋風住宅は、昭和49年(1974)年7月、遺族によってグラバー園に寄贈された。  現在、南山手に住んでいた福田サトのことを覚えている人はほとんどいないが、旧ウォーカー住宅は海の見えるグラバー園の高台に大切に保存されており、波乱万丈の歴史を今もささやき続けている。2013年12月


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EPISODE 10

旧ウォーカー住宅の知られざる過去

南山手東側の狭い地域には、大浦天主堂、大浦諏訪神社、妙行寺という3つの建物が隣接して建てられており、この地域における国際交流の歴史と折衷文化を物語っている。「祈念坂」と呼ばれる大浦天主堂横の石畳の小道を登っていくと、古風なレンガ壁と正門が見える。これは現在グラバー園に移築保存されている「旧ウォーカー住宅」の元の所在地である。居留地時代の住所は南山手乙28番地であった。 ロバート・ウォーカー2世が大正4年(1915)に土地と建物を購入して主となったが、最初に住んでいたのはベル・ビュー・ホテル(南山手11番地、現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルの場所)のイタリア人経営者C・N・マンチーニだった。明治4年(1871)6月10日付けの英字新聞『ナガサキ・エクスプレス』に、「南山手乙28番地のバンガロー式邸宅」の売却広告が載っていることから、グラバー園に移築保存されている建物は明治初期にすでに建っていたと判断できる。 買い手は不明だが、その後の記録によると、デンマーク生まれのアメリカ人船乗りM・C・カールセンが明治21年(1888)からここに住んでおり、上杉ソモという日本人女性と結婚していた。しかし、ソモはなんらかの理由でカールセンと別れ、この船乗りは不運にも結核を患い同28年(1895)10月に他界した。遺体は坂本国際墓地に一旦埋葬されたが、親族の依頼で掘り起こされアメリカに帰されることになった。2014年1月


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EPISODE 11

国宝・大浦天主堂について

フランス人医師レオン・ドュリーは、文久2年(1862)に駐在長崎フランス領事に任命された。ドュリーの要請により、パリ外国宣教会は翌年、教会と伝道本部を設立するためにフランス人司祭テオドル・フューレを長崎に派遣した。喜んだドュリーは、教会建設予定地として南山手甲1番地の借地権を確保した。 文久3年(1863)ベルナード・プティジャン神父らも長崎に到着した。その前年、東山手で日本最初のプロテスタント教会である英国教会堂の建設に携わっていた天草出身の小山秀之進が新しい教会の施工を引き受けた。翌年末に完成した教会は、英国教会堂と同様に殉教地である長崎市西坂に向けて建てられ、「日本二十六聖殉教堂」と正式に命名され、日本では教会建物に地名を付けて呼ぶ習慣があるため、通称「大浦天主堂」と呼ばれた。 献堂式が挙行された元治2年(1865)2月19日から1ヵ月もたたない内、日本人農民の一団が教会を訪れ、彼らが長崎の郊外に住む潜伏キリシタンであることをプティジャン神父に打ちあけた。それは世界を震撼させた「信徒発見」の瞬間であった。 明治8年(1875)、パリ外国宣教会は日本人司祭育成を目的として長崎公教神学校の校舎兼宿舎を天主堂の敷地内に建設した。同神学校を設計したのは、その後、貧困に苦しむ人達のために社会福祉活動に尽力し、現在も「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれるマーク・マリー・ド・ロ神父であった。 大浦天主堂は、昭和28年(1953)に国宝に指定されたが、南山手を訪れる観光客の増加にともない、同50年(1975)、カトリック大浦教会が近くに新築され、大浦天主堂は有料観光施設として一般に開放された。2014年2月


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EPISODE 12

ロバート・ウォーカー二世(1882-1958)について

ロバート・ウォーカー二世は、英国人船長ロバート・N・ウォーカーと日本人妻福田サトの次男として、明治15年(1882)に神戸で生まれた。ベルファスト(北アイルランド)の学校を卒業した後に長崎へ戻り、父の会社「R・N・ウォーカー商会」に就職した。明治37年(1904)、ウォーカーは製造機一式を居留地のオークションで落札し、下り松甲44番地の自社倉庫で「バンザイ炭酸飲料会社」を立ち上げた。以降13年間、この会社は「バンザイ」ブランドのジンジャエール、ソーダ水や他の炭酸飲料を製造し、地元のホテルや店に販売した。  明治41年(1908)、ロバート・N・ウォーカーは4人の娘たちを連れてカナダに移住し、R・N・ウォーカー商会の権限を次男ロバート二世に譲った。大正4年(1915)、ロバート・ウォーカー二世は、現在グラバー園に移築保存されている南山手乙28番地の洋風住宅を購入した。彼は無国籍という特異な状況にいたが、昭和3年(1928)に日本国籍をとり、正式な名前をRobert Walkerから、姓名をカタカナ表記、「ウォーカーロバート」と変えた。  ウォーカーは昭和12年(1937)、長崎出身で同じく英国人男性と日本人女性の間に生まれたメイブル・シゲコ・マックミランと結婚し、その後二人の息子の父となった。太平洋戦争の間、ウォーカー家は日本国籍を保持しているにもかかわらず、警察の厳しい監視下に置かれたが、終戦後も、南山手の乙28番地に住み続け、日本国籍と英語名を持つ家族として異彩を放った。 2014年3月