EPISODE 南山手秘話 | グラバー園公式ウェブサイト
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南山手秘話

INTRODUCTION

グラバー園名誉園長
ブライアン・バークガフニ

1859年長く続いた鎖国時代に終わりを告げました。
安政の開国に合わせて続々とやってくる外国人の為に、南山手、東山手地区は「外国人居留地」として造成されました。
東山手は主に学校や領事館などが建てられ、南山手は洋風住宅や教会などが佇む優雅な多国籍居住地へと発展しました。
この南山手秘話ではグラバーやグラバー園に限らず南山手の様々な人物やエピソードを紹介していきます。

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南山手秘話

EPISODE 1

一本松の邸宅

 スコットランド人事業家、トーマス・グラバー(1838~1911)の旧邸は日本における最古の洋風建築として建築当初からそのままの場所に建っている。
 ちょうど150年前の文久3年(1863)、天草の棟梁の小山秀之進によって建設され、まるで貿易と国際交流をつかさどる新時代のお城のように鍋冠山の中腹から長崎港を見下ろした。建築当初はL字型の平面であったこの木造住宅は、端部が独特な半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱、菱型に組まれた格子の天井をもつ広いベランダを誇る。屋根は日本瓦で覆われ、壁は日本の伝統的な土壁であった。一方、中は典型的な西洋風の造りになっていて、前方にはリビングルームとダイニングルーム、奥には英国式暖炉のある寝室と厨房や倉庫などがあった。旧グラバー住宅のすぐそばで大きな松の木がそびえ立っていた。この松の木にちなんでグラバーは自宅のことを「IPPONMATSU(一本松)」と呼び、家の北側部分に松の樹幹を取り囲む小さな温室を造った。威厳のある古木は後に病気にかかり枯れ、明治38年(1905)に切り倒されてしまった。
 波瀾万丈の歴史を歩んできた旧グラバー住宅。現在は、グラバー園の目玉として独特な雰囲気を漂わせ続けている。彫刻を施したマントルピース、手描きの有田焼タイル張りの暖炉、また分厚い床板等が人語を解し、すべてを語り始めたとしたら、どのような歓喜と悲哀の物語が聞けるのだろうか――。
2013年4月

ep2

南山手秘話

EPISODE 2

グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱

 グラバー園に移築されたフリーメイソン・ロッジの門柱フリーメイソンは、中世のイギリスで始められた友愛団体だが、長崎におけるロッジ(集会所)は、明治18年(1885)に発足した。三菱長崎造船所に勤めるイギリス人たちが会員の大半を占め、初代グランドマスター(ロッジ長)に選ばれたのは、三菱が長崎造船所の初代マネージャーであったスコットランド人のジョン・コルダー(John Calder)であった。コルダーの住宅は、現在は愛知県の明治村に移築保存されてる南山手25番館であった。明治22年(1889)、会員たちが大浦47番地の建物の2階にロッジを移してフリーメイソンのマークを刻んだ門柱を入口に設置した。ロッジは大正8年(1919)に活動を中止し、大浦47番地の洋風建築も戦後に取り壊された。表の門柱だけが保存され、旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にあるテニスコート跡に移された。昭和46年(1971)にグラバー園の整備が始まると、この門柱は旧リンガー住宅の真横に移され、現在に至る。
 門柱にはフリーメイソンの理想である平等と正義の象徴である定規とコンパスがはっきりと見て取れる。 トーマス・グラバーもフレデリック・リンガーもフリーメイソンに加入した痕跡はないが、長崎の国際墓地には今も数人の会員が眠っており、彼らの墓標には門柱と同じシンボルマークが刻み込まれている。
2013年5月

ep3

南山手秘話

EPISODE 3

グラバー園とヒッチコック監督~知られざる接点

 グラバー園に現地保存されている3棟の重要文化財の一つに「旧オルト住宅」がある。元の主は幕末の茶貿易などで活躍したイギリス人商人ウィリアム・オルト(William Alt)である。
 昭和60年(1985)、オルト家の血をひく人物が久しぶりに長崎を訪れた。ひ孫にあたるモンゴメリー子爵夫人(旧姓テッサ・ブラウニング)である。先祖の住宅を見たいという思いにかられて一路長崎を目ざしたようだが、長崎訪問の際、同夫人の母親は有名な小説家ダフネ・デュ・モーリア(Daphne du Maurier)であることが初めて長崎で知られることとなった。ダフネ・デュ・モーリアは、明治40年(1907)ロンドンで生まれ、まだ24歳だった昭和6年(1931)に出版した処女作「愛はすべての上に」(The Loving Spirit)がいきなりベストセラーとなった。その後ウィリアム・オルトの孫に当たる軍人のフレデリック・ブラウニング(Frederick Browning)と結婚した彼女は、次々とベストセラー小説を発表して話題を呼んだ。映画化された小説の中で最も有名なのは、「レベッカ」(Rebecca)であろう。「風と共に去りぬ」で名声を得たデイビッド・O・セルズニックがプロデュースして昭和15年(1940)に映画化された「レベッカ」は、映画監督アルフレッド・ヒッチコックのアメリカデビュー作となった。同年のアカデミー賞の作品賞に輝いたこの映画は、今尚、モノクロ映画の名作として絶賛されている。ヒッチコック監督の名作ホラー「鳥」(TheBirds)の原作者もダフネ・デュ・モーリアである。
2013年6月

ep4

南山手秘話

EPISODE 4

キリン、狛犬とグリフィン

 旧グラバー住宅の温室の中を通ると一対の狛犬が目を引く。その説明板には、「この狛犬は今日のキリンビール社のラベルのもとになった」と書いてある。トーマス・グラバーとその仲間は明治18年(1885)、キリンビールの前身会社であるジャパン・ブルワリ・カンパニーを横浜で創設したのは確かだが、ビールのシンボルに麒麟を選んだ経緯は実は不明である。現在のラベルのデザインは明治22年(1889)に登場し、麒麟はライオンのような黄色のたてがみと、わき腹に沿って、銀色に光るしま模様が施されていた。麟麟の顔のまわりを一周して、たてがみの中へと消えて行く大きな黄色の口ひげも加えられたが、これは太い口ひげをトレードマークにしていたトーマス・グラバーの貢献に敬意を表してのことだと伝えられている。
 しかし、それが事実であったとしても、麒麟がそもそもなぜ採用されたかはわからない。グラバーが自宅の狛犬でなく、ロンドン郊外のチズウィックで1845年からビールを醸造していたフーラー社のロゴからヒントを得たという可能性がむしろ高いと思われる。この会社はシンボルマークに麒麟と同じような伝説の奇獣であり、ライオンの胴体に鷲の頭と羽を持つ「グリフィン」を使っており、今でもイギリスで人気のある「ロンドンプライド」などのビールを作り続けている。
2013年7月

ep5

南山手秘話

EPISODE 5

南山手の「バブーシュカ」

 旧グラバー住宅のダイニングルームには大きな木製のディナーテーブルがある。これは、南山手に住んでいたクリスティーナ・シェルビニナ(ChristinaScherbinina)女史の死後、グラバー園に寄贈されたものである。
クリスティーナの父は、明治2年(1869)頃に来崎したアフリカ系英国人、リチャード・フォード(RichardFord)で、母は日本人女性の沢チワ。フォードは荷揚業や仲買業を営み、雨のドンドン坂沿いの南山手22番地に洋風住宅を建てた。フォードは明治36年(1903)に他界し、坂本国際墓地に埋葬された。妻チワは昭和10年(1935)に亡くなり、夫のとなりに葬られた。一人娘のクリスティーナは幼児期からウラジオストクの学校で学んだ。卒業後もその地に残り、ロシア人船長のシェルビニンと結婚して一男一女の母となった。クリスティーナは長い間ウラジオストクに住んでいたが、夫の死を機に長崎へもどり実家の南山手22番館に居を構えた。ロシア正教の信者だったクリスティーナは、長崎を訪れるロシア人たちを家で接待し、彼等から「南山手のバブーシュカ」として慕われた。昭和41年(1966)に亡くなったときは、多くのロシア人や日本人が葬儀に参列したという。現在は坂本国際墓地で両親と並んで永眠している。
 旧グラバー住宅のディナーテーブルを見ると、ロシアの家庭料理を楽しむ在りし日のロシア人たちが目に浮かぶ。※バブーシュカ:女性が頭を覆うスカーフの事。転じてロシアでは老夫人や祖母の事を親しみを込めてバブーシュカと呼ぶ。
2013年8月

ep6

南山手秘話

EPISODE 6

長崎最初の高級ホテル「ベル・ビュー・ホテル」

 慶応元年(1865)発行の外国人名簿「ジャパン・ディレクトリ」によると、長崎居留地には3軒のホテルが存在していたことが示されている。それは、大浦25番地の「コマーシャル・ハウス」、同26番地の「オリエンタル・ホテル」、南山手11番地の「ベル・ビュー・ホテル」である。いずれも日本最初期の西洋式ホテルだが、前者2軒は居酒屋を備えており、「ベル・ビュー・ホテル」のみが婦人や子供を迎える高級ホテルであった。元イギリス領事館巡査の妻、メアリー・グリーン(Mary Green)夫人により経営されていたこのホテルは、中庭をもつ四角形の木造2階建て建築で、外国人来訪者が上陸する長崎税関の第6番波止場の上に建っていた。イギリス人旅行者N・B・デニーズ(N.B.Dennys)は同3年(1867)の記述の中で次のようにベル・ビュー・ホテルについて言及している。
「もてなしのよく行きとどいたこのホテルは、来訪者に親しまれていた。夕食は1ドルで済ますことができ、一週間滞在すればすべてを含めて21ドルである。湾と街の美しい景色を見渡すことができる」。
 ベル・ビュー・ホテルは長崎を代表する西洋式ホテルとして営業を続けたが、日露戦争後、長崎の国際貿易港としての繁栄は衰退し、旧外国人居留地のホテルは次々と姿を消していった。大正9年(1920)、長崎最古の高級ホテルであったベル・ビュー・ホテルもついに廃業した。グラバー園へと続く坂道の左手のベル・ビュー・ホテル跡地には、現在、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルが建っている。
2013年9月


ep7

南山手秘話

EPISODE 7

ロシア語新聞「ヴォーリヤ」

 日露戦争中に閉館されていた南山手5番地のロシア領事館が、戦後復活し、長崎を訪れるロシア人も再び急増した。「東洋日の出新聞」によると、明治39年(1906)1月から9月の間、月平均328人のロシア人が長崎税関の波止場を通過した。その多くは避暑地の雲仙へ行く裕福なロシア人たちだが、南山手に居を構える人も少なくなかった。同年、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎に派遣され、この街における活動を再開した。教会堂は南山手の旧ロシア海軍病院の敷地内に開設されていたが、大正6年(1917)に首司祭アントニイ高井神父名義になり、長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。
 日露戦争後に長崎に住み着いたロシア人の一人に、医師で政治活動家のニコライ・ラッセル(Nicholas Russel)がいる。「在長崎露国革命党首領」として同僚に慕われていた彼は、明治39年(1906)4月から日本抑留のロシア人捕虜やそのほかのロシア人に革命を宣伝するために「ヴォーリャ」(Воля)と題するロシア語新聞を南山手12番地で発行した。同新聞は翌年春まで発行を続け、その後に起きたロシア革命の一翼を担った。ラッセルは同43年(1910)に長崎を離れてフィリピンに活動の場を移したが、その後も度々長崎を訪れて親交を深めた。その後、彼は、日本人女性大原ナツノとの間に生まれた長女フローラと共に中国の天津に移住し、昭和5年(1930)、波乱万丈の生涯を閉じた。
2013年10月


ep8

南山手秘話

EPISODE 8

南山手とミッション・スクール

 長崎居留地に開設された最初のカトリック系ミッション・スクールは聖心女学校と海星学校である。フランスに本部を置くショファイユの幼きイエズス修道会の修道女たちは明治13年(1880)に来崎し、翌年、大浦5番地に修道院とセンタンファンス(聖なる子どもたち)と名付けられた子どもたちの家を開設した。
明治24年(1891)、宗教や国籍を問わず日本人と外国人がともに寄宿した「聖心女学校」を同地に開設し、これは「フランス学校」とも呼ばれ、明治期の長崎では唯一のカトリック系女学校であった。聖心女学校は、同31年(1898)、南山手町16番地に建てられたロマネスク様式赤煉瓦造りの新しい建物に移転した。現在はマリア園の所在地となった旧校舎は、明治期の香りただよう長崎の名所となっている。
一方、長崎居留地初のカトリック系男子校は、明治25年(1892)1月、マリア会のフランス人修道士たちが南山手31番地に創設した海星学校である。校舎は、ロバート・N・ウォーカー船長やその他の外国人住民がかつて居を構えていた煉瓦造りの豪邸だった。その後、同校は長崎港を見下ろす東山手1番地の高台(現在地)に移転した。明治31年(1898)に完成した荘重なロマネスク様式の校舎は、長崎居留地に新たな歴史と文化を加えた。一方、南山手31番地の建物は長崎に支局を持つ大北電信会社が買い取り、太平洋戦争の勃発までデンマーク従業員の住宅として利用されていたが、戦後に取り壊された。
2013年11月


ep9

南山手秘話

EPISODE 9

福田サトの運命

 日本郵船会社(NYK)の船長として活躍していたロバート・N・ウォーカーは、明治19年(1886)に神戸~ウラジオストク間の航路に就任するために、日本人妻福田サトと4人の子供を連れて神戸から南山手31番地の邸宅に移住した。長崎でも3人の子供が生まれ、9人の大家族となった。しかし、明治24年(1891)、ウォーカー船長が指揮する高千穂丸は対馬南部の海岸に座礁してしまった。彼は事故の責任をとり辞職し、家族を長崎から引き上げて英国の故郷メリーポートへ帰った。あまりにも大きすぎたストレスのせいか、サトは36歳の若さで急病に倒れ、帰らぬ人となった。ウォーカー船長は愛妻の死を惜しみながらも当時9人にまで増えていた子供たちを連れて日本へ戻り、長崎居留地に荷揚げ業の「R.N.ウォーカー商会」を立ち上げた。彼は明治41年(1908)にカナダへ移住したが、90歳で他界するまで再婚することはなかった。長崎に残った次男ロバート・ウォーカー二世は、R.N.ウォーカー商会を継承して地域経済の発展に寄与していった。彼が大正4年(1915)に購入した南山手乙28番地の洋風住宅は、昭和49年(1974)年7月、遺族によってグラバー園に寄贈された。
 現在、南山手に住んでいた福田サトのことを覚えている人はほとんどいないが、旧ウォーカー住宅は海の見えるグラバー園の高台に大切に保存されており、波乱万丈の歴史を今もささやき続けている。
2013年12月


ep10

南山手秘話

EPISODE 10

旧ウォーカー住宅の知られざる過去

 南山手東側の狭い地域には、大浦天主堂、大浦諏訪神社、妙行寺という3つの建物が隣接して建てられており、この地域における国際交流の歴史と折衷文化を物語っている。「祈念坂」と呼ばれる大浦天主堂横の石畳の小道を登っていくと、古風なレンガ壁と正門が見える。これは現在グラバー園に移築保存されている「旧ウォーカー住宅」の元の所在地である。居留地時代の住所は南山手乙28番地であった。
 ロバート・ウォーカー2世が大正4年(1915)に土地と建物を購入して主となったは、最初に住んでいたのはベル・ビュー・ホテル(南山手11番地、現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルの場所)のイタリア人経営者C・N・マンチーニだった。明治4年(1871)6月10日付けの英字新聞『ナガサキ・エクスプレス』に、「南山手乙28番地のバンガロー式邸宅」の売却広告が載っていることから、グラバー園に移築保存されている建物は明治初期にすでに建っていたと判断できる。 買い手は不明だが、その後の記録によると、デンマーク生まれのアメリカ人船乗りM・C・カールセンが明治21年(1888)からここに住んでおり、上杉ソモという日本人女性と結婚していた。しかし、ソモはなんらかの理由でカールセンと別れ、この船乗りは不運にも結核を患い同28年(1895)10月に他界した。遺体は坂本国際墓地に一旦埋葬されたが、親族の依頼で掘り起こされアメリカに帰されることになった。
2014年1月


ep11

南山手秘話

EPISODE 11

国宝・大浦天主堂について

フランス人医師レオン・ドュリーは、文久2年(1862)に駐在長崎フランス領事に任命された。ドュリーの要請により、パリ外国宣教会は翌年、教会と伝道本部を設立するためにフランス人司祭テオドル・フューレを長崎に派遣した。喜んだドュリーは、教会建設予定地として南山手甲1番地の借地権を確保した。
文久3年(1863)ベルナード・プティジャン神父らも長崎に到着した。その前年、東山手で日本最初のプロテスタント教会である英国教会堂の建設に携わっていた天草出身の小山秀之進が新しい教会の施工を引き受けた。翌年末に完成した教会は、英国教会堂と同様に殉教地である長崎市西坂に向けて建てられ、「日本二十六聖殉教堂」と正式に命名され、日本では教会建物に地名を付けて呼ぶ習慣があるため、通称「大浦天主堂」と呼ばれた。献堂式が挙行された元治2年(1865)2月19日から1ヵ月もたたない内、日本人農民の一団が教会を訪れ、彼らが長崎の郊外に住む潜伏キリシタンであることをプティジャン神父に打ちあけた。それは世界を震撼させた「信徒発見」の瞬間であった。
明治8年(1875)、パリ外国宣教会は日本人司祭育成を目的として長崎公教神学校の校舎兼宿舎を天主堂の敷地内に建設した。同神学校を設計したのは、その後、貧困に苦しむ人達のために社会福祉活動に尽力し、現在も「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれるマーク・マリー・ド・ロ神父であった。大浦天主堂は、昭和28年(1953)に国宝に指定されたが、南山手を訪れる観光客の増加にともない、同50年(1975)、カトリック大浦教会が近くに新築され、大浦天主堂は有料観光施設として一般に開放された。
2014年2月


ep12

南山手秘話

EPISODE 12

ロバート・ウォーカー二世(1882-1958)について

ロバート・ウォーカー二世は、英国人船長ロバート・N・ウォーカーと日本人妻福田サトの次男として、明治15年(1882)に神戸で生まれた。ベルファスト(北アイルランド)の学校を卒業した後に長崎へ戻り、父の会社「R・N・ウォーカー商会」に就職した。
明治37年(1904)、ウォーカーは製造機一式を居留地のオークションで落札し、下り松甲44番地の自社倉庫で「バンザイ炭酸飲料会社」を立ち上げた。以降13年間、この会社は「バンザイ」ブランドのジンジャエール、ソーダ水や他の炭酸飲料を製造し、地元のホテルや店に販売した。明治41年(1908)、ロバート・N・ウォーカーは4人の娘たちを連れてカナダに移住し、R・N・ウォーカー商会の権限を次男ロバート二世に譲った。大正4年(1915)、ロバート・ウォーカー二世は、現在グラバー園に移築保存されている南山手乙28番地の洋風住宅を購入した。彼は無国籍という特異な状況にいたが、昭和3年(1928)に日本国籍をとり、正式な名前をRobert Walkerから、姓名をカタカナ表記、「ウォーカーロバート」と変えた。ウォーカーは昭和12年(1937)、長崎出身で同じく英国人男性と日本人女性の間に生まれたメイブル・シゲコ・マックミランと結婚し、その後二人の息子の父となった。太平洋戦争の間、ウォーカー家は日本国籍を保持しているにもかかわらず、警察の厳しい監視下に置かれたが、終戦後も、南山手の乙28番地に住み続け、日本国籍と英語名を持つ家族として異彩を放った。
2014年3月


ep13

南山手秘話

EPISODE 13

日本初の電報局

明治元年(1868)、ロシア政府がロシアから中国、日本、香港を結ぶ電信ケーブルを敷設する入札を要求したところ、デンマークに本社をおく大北電信会社がその権利を獲得し、ウラジオストックから長崎、上海、香港まで、2300海里(約4260キロメートル)の距離を海底電信ケーブルで結び、南山手11番地にあったベル・ビュー・ホテルの一室に電報局を構えた。そして明治4年(1871)年8月12日に日本初の海外電報サービスが始められたのである。当時、長崎から上海の電報代は、20文字で3ドル(洋銀)と高額なものであった。長崎から上海まで敷設された海底ケーブルは、すでにイギリス系の電信会社がつくっていたヨーロッパ・アジア回線やヨーロッパ・アメリカ回線と接続し、世界を周回する雄大な回線ができた。これにより、日本は世界の電信網につながった。明治7年(1874)、同会社はベル・ビュー・ホテルから長崎郵便局の隣、梅香崎2番の大きな2階建て洋館に長崎支局を移転した。建物の外にはデンマークの国旗が掲げられ、日本の国際通信を外国の会社が統御していることを象徴した。大北電信会社の歴代支局長とその他の従業員たちが、日本の電信技術の促進において重要な役割を果たすこととなった。明治32年(1899)の条約改正により居留地制度が廃止された後、日本政府は海底ケーブルの管理権の譲渡を求めたが、大北電信会社が太平洋戦争直前まで日本の国際通信の大動脈を握り続けたのである。
2014年4月


ep14

南山手秘話

EPISODE 14

長崎のデ・スーザ家

ポルトガル人シモン・デ・スーザは出身地のマカオから明治初年に来崎し、英字新聞の編集者などを経て、長崎米国領事館で通訳兼事務官のポストに就いた。日本人女性と結婚して十数人の子供たちの父となった彼は、長崎居留地の中で日本人と外国人の「架け橋」として活躍し、明治37年(1904)に他界して坂本国際墓地で眠る。
シモン・デ・スーザの息子アルミロは、明治13年(1880)に長崎で産声を上げた。南山手26番地の邸宅で少年時代を過ごし、カトリック系男子校「海星学校」を同31年(1898)に卒業した。その後、兄と共に小売および問屋業の「デ・スーザ商会」を旗揚げしたが、この事業は順風満帆とは行かず、S・D・レスナー商会に一時転職した。しかし、明治37年(1904)、香港上海銀行が下り松海岸(現在の松が枝町)に長崎支店の社屋を新築した際に、彼は同銀行の行員という安定した職を得た。 アルミロ・デ・スーザは日本人とフランス人の間で生まれた女性と結婚し、南山手8番地に新居を構えた。一家は幸せな生活を送っていたが、彼は大正10年(1921)に肺炎を患い、同年11月、妻と8人の子供たちが見守る中で息を引き取った。享年41歳。
南山手8番地の自宅は戦後に取り壊され、その跡地には現在、グラバー園入口前に商店が軒を並べている。一方、デ・スーザ夫人がイタリアから取り寄せ、坂本国際墓地の亡き夫の墓前に設置した天使像2体は、現在も祈りを捧げ続けている。
2014年5月


ep15

南山手秘話

EPISODE 15

「リンゲル液」と長崎

年配の方々は、「リンゲル」といえば、点滴のことを意味していた時代を覚えておられるだろう。しかし、輸液に使用される「リンゲル液」を発明したイギリスの医師シドニー・リンガー博士が、長崎に深い関わりがあったことを知る人はあまりいないかも知れない。
グラバー園に現地保存されている旧リンガー住宅の元主は、イギリス・ノーリッジ市で生まれ、日本の殖産興業と長崎の経済発展に多大な貢献をしたフレデリック・リンガーである。リンガーの2人の兄もそれぞれ世に名を残した。長男のジョンは当初の上海外国人住民として同市の水道建設やその他の事業に貢献した。
一方、次男のシドニーは、ロンドン・カレッジ大学医学部教授として、人間の鼓動とイオンの関係性に関する先行的な研究で名声を博し、1885年(明治18年)に王立協会のフェローとなった。リンガー医師による『リンガーの治療学ハンドブック』は、薬理学者定番の教科書であり、また、彼の名前にちなんだ「リンガー液」(日本ではドイツ語風に「リンゲル液」と呼ばれた)という点滴用の生理食塩水は、現在でも世界中の医療機関で使われている。シドニー・リンガー医師は退官後にロンドンの自宅とノースヨークシャー州ラスティンガムにある妻の実家で余生を送り、弟フレデリックが活躍した日本には来ることはなかった。
2014年6月


ep16

南山手秘話

EPISODE 16

愛犬の墓

居留地時代の古写真から、長崎に来航した外国人たちがペットとして犬を連れてきていたことが確認できる。それは、ラブラドールレトリーバー、スコティッシュテリアやアイリッシュセッターなど、当時の日本人には珍しい外来種も含まれていた。その結果、様々な「洋犬」が長崎やその他の開港場経由で日本全国に広がったと考えられる。
慶応元年(1865)、居留地在住の外国人たちが休養を楽しむために長崎港外のねずみ島へ出かけた際に撮った有名な集合写真がある。それをよく見ると、イギリス商人ウィリアム・オルトの膝の上にヨークシャーテリアが写っている。リンガー家は明治36年(1903)から南山手14番地の旧オルト住宅に居を構えたが、家族の写真アルバムにも愛犬がたびたび登場している。現在の旧オルト住宅(グラバー園内)の前庭の端っこに小さな墓碑が木陰に隠れるように立っている(写真)。碑文には、「ミキ」と「リンジャ」の名前と「昭和3年4月12日」の日付だけが刻まれている。それ以外の記録はまったく見当たらないが、同地に住んでいたフレデリック・リンガーの長男一家が亡き愛犬を偲んで設置したものであろう。しかし、ひとつ腑に落ちない点がある。リンガー氏に墓碑の設置を任せられた日本人従業員による聞き違いという可能性もあるが、「リンジャ」は「レインジャー」(Ranger)の間違いではないかと思われるし、碑文のカタカナ表記と日本年号は謎のままである。
2014年7月


ep17

南山手秘話

EPISODE 17

マダム・バタフライ・ハウス

由緒ある旧グラバー住宅の外国人の最後の住人は、戦後直後にアメリカ占領軍の一員として上陸していたジョセフ・ゴールズビー大尉であった。独特な洋風建築と長崎港を一望できることに魅了されたゴールズビーやその後に来崎したバーバラ夫人は、自分がマダム・バタフライのヒロイン、蝶々さんの家に住んでいるのだと想像し、旧グラバー住宅に「マダム・バタフライ・ハウス」という愛称を付けた。
昭和25年(1950)ごろ、占領軍が長崎を後にしてから、同住宅はマスメディアにも注目され、本や雑誌、パンフレットなどで「マダム・バタフライ・ハウス」として紹介され、歴史的根拠に乏しいものの、これは人々の興味を誘い、観光産業を刺激して戦後長崎の復活のきっかけとなった。昭和31年(1956)のダニエル・ダリュー、ジャン・マレー、岸恵子出演のフランス映画、「忘れえぬ慕情」は蝶々夫人を思い出させ、長崎に対する国際的な関心をさらに高めた。同32年(1957)、三菱重工は長崎造船所の前身である長崎溶鉄所の100周年記念として旧グラバー住宅を長崎市に寄贈。翌年、旧グラバー住宅が一般に公開されると、「マダム・バタフライ・ハウス」や「蝶々夫人ゆかりの地」の名称は長崎の観光産業を活性化させるために、標識、パンフレットやその他の宣伝に広く使われた。バスガイドまでも感動のアリア、「ある晴れた日」を歌う勉強をして旧グラバー住宅を訪れる観光客を楽しませたという。
2014年8月


ep18

南山手秘話

EPISODE 18

ジョルダン夫人と西洋音楽の普及

南山手8番地の邸宅に長年居を構えていたジョルダン一家は長崎における西洋音楽の普及に大きな役割を果たした。オーエ・ジョルダンはデンマーク・コペンハーゲンで生まれ。明治15年(1882)に同国の大北電信会社香港支局に技術者として就任し、その2年後には恋人のキャロラインをデンマークから招き結婚した。上海とアモイ(廈門)で勤務したあと、彼は明治24年(1891)年、長崎支局に転属になり妻と息子3人を連れて長崎にやってきた。ジョルダン夫妻と息子たちは熟練したミュージシャンでもあった。居留地で開催されるパーティーや舞踏会で演奏するだけでなく、楽器や歌の才能を持つ居留者たちを集めてその組織化を推進した。日露戦争が終結した明治38年(1905)、キャロライン・ジョルダン夫人の計らいによって「ナガサキ・ミュージカル・アソシエーション」(長崎音楽協会)が結成された。初期の頃、オーケストラの奏者のほとんどが在住外国人であったが、活水女学校音楽科の卒業生やジョルダン夫人の日本人生徒などが次第に加わるようになった。オーエ・ジョルダンは大正7年(1918)7月、帰らぬ人となり、坂本国際墓地に埋葬された。息子たちは大人になってから海外に移住した。西洋音楽の普及に尽力したキャロライン・ジョルダン夫人は、大正13年(1924)に多くの長崎の友人と生徒たちに惜しまれながら長崎を離れた。
2014年9月


ep19

南山手秘話

EPISODE 19

日本最初の領事館

安政6年(1859)に開設された長崎イギリス領事館は、日本最初の外国領事館であり、太平洋戦争直前に閉鎖されるまで、長崎における最も影響力のある外交機関として居留地社会の中心的施設という役割を果たした。
安政6年5月、ラザフォード・オールコック初代イギリス公使に随行して来崎したC・P・ホジソンは、長崎初代イギリス領事に任命されていたジョージ・モリソンの来日が遅れたため、大浦郷の妙行寺に仮設した領事館で業務を開始した。一行は6月13日(旧暦5月13日)、妙行寺境内の旗竿に初めてユニオン・ジャックを揚げた。同年7月に着任したモリソンは、領事館業務を引継ぎ、居留地の基盤整備に尽力した。しかし、彼は仮領事館の状況には驚いたようである。オールコック公使にあてた手紙で彼は次のように伝えている。「私はここに到着すると、領事館の施設は古びた寺院の小部屋、厨房、2軒の付属屋(その1つは馬屋に過ぎない)と背面および前面に広がる泥の庭から構成されていることを知りました。(中略)これは3人の紳士、巡査、および10~12名の使用人が公務を遂行するのに相応しいものとは到底いえません。」文久3年(1863)6月、モリソンは南山手11番地の「グリーンズ・ホテル」(後のベル・ビュー・ホテル、現在はANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル所在地)に領事館を移設してやっと安堵することができた。一方、妙行寺は今も元の場所で法務を続けている。
2014年10月


ep20

南山手秘話

EPISODE 20

グラバーはスコットランド人だった

昭和32年(1957)10月10日、 三菱重工業株式会社は長崎造船所創業100年祝賀式記念事業として、旧グラバー住宅を長崎市に寄贈した。翌年、長崎市は同住宅を有料観光施設として一般に公開。入場料は大人10円で、入口に料金徴収のために無人ボックスが設置されたという。更に3年後の昭和36年(1961)、旧グラバー住宅は国の重要文化財に指定された。長崎市は、重要文化財指定の記念として、元の主トーマス・グラバーの胸像を旧グラバー住宅前に除幕した。現存するその胸像には次の碑文がある。
「英国人トーマス・ブレーク・グラバーは安政6年(1859)長崎に来て貿易業を営むかたわら近代的な造船・掘炭・製茶などの事業をおこしわが国産業の発展に貢献した。その間特に薩長土肥の諸藩に協力して明治維新の大業に寄与した。その偉功により勲二等旭日章を授けられ明治44年(1911)73歳で永眠した。ここに胸像を建てその功績を永く顕彰する。」
この碑文には間違いはないけれども、日本語の下にある英語訳の銘鈑には修正された跡がある。翻訳者は日本語の「英国人」を「Briton」とすればよかったのだが、Englishman(イングランド人)としたため、旧グラバー住宅を訪れたスコットランド人たちの怒りを買ってしまった。度重なる苦情を受けた長崎市は業者に頼んで、スコットランド出身だったグラバの国籍の英語訳を「Scotsman」に改めた。 2014年11月


ep21

EPISODE 21

クリフ・ハウス・ホテル物語

20世紀の変わり目ごろ、長崎は国際貿易港として空前の賑わいを呈していた。この時期に繁盛した西洋式ホテルのなかに、南山手10番地のクリフ・ハウス・ホテルがあった。このホテルは2つの大きな西洋風建築からなっており、ひとつには客室、もうひとつにはロビーやレストラン、ビリヤード場が設けられていていた。経営者は、日本の海運業に貢献していたウィルソン・ウォーカー元船長とその妻シャーロット。大正9年(1920)に日本人経営者に代わったが、事業は成功にはいたらなかった。同じ年に雨森一郎とその弟田中政彦が土地と建物を購入して田中・雨森病院を開設した。その後、旧クリフ・ハウス・ホテルの部屋の一部は外国人に月貸しされた。住人のひとりに昭和5年(1930)に来崎したポーランド出身のカトリック司祭マキシミリアノ・コルベがいた。コルベは印刷所を立ち上げ、「無原罪の聖母の騎士」を執筆し出版した。同11年(1936)に帰国した彼、はナチスを批判した罪でアウシュビッツ強制収容所に送られ、やがて処刑を宣告された妻子持ちの収容者のかわりを申し出て処刑された。昭和57年(1982)、コルベは教皇ヨハネ・パウロ2世により聖者の列に加えられた。旧クリフ・ハウス・ホテルの建物は戦後、三上工作所という工場に改装されたが、昭和48年(1973)の火事で焼失してしまった。現在は、レンガ造りの煙突だけが残り、往時の繁栄と国際交流を静かに物語っている。2014年12月


ep22

南山手秘話

EPISODE 22

南山手の貴婦人、シャーロット・ウォーカー

オランダ生まれのシャーロット・ウォーカー(旧姓ノードホーク・ヘフト)は、日本郵船会社船長ウィルソン・ウォーカーの妻として約30年間長崎に居住した。彼女の父であるオランダ人商人M・J・B・ノードホーク・ヘフトは、横浜居留地で活躍し、劇場の開設や初期のビール醸造所の経営などで知られる。毎年開催さる「横浜山手ヘフト祭」は彼に因んで名づけられた。ウィルソン・ウォーカー一家は明治26年(1893)に神戸から長崎に移住し、南山手12番地に居を構えた。夫が瀬戸内海における水先案内を務めている間、シャーロットは隣接する南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルを経営した。また日本で生まれた5人の子供たちを長崎で育て、それぞれの結婚と離崎を南山手12番地の大きな西洋風住宅で見届けた。シャーロットは、夫ウィルソンが大正3年(1914)に死去した後も南山手に住み続けたが、同9年(1920)に長女の住む上海へ渡り、その後、南山手12番地の邸宅と10番地のクリフ・ハウス・ホテルを病院の開設を計画していた雨森兄弟に売却した。昭和12年(1937)、日中戦争が勃発すると、英国政府は上海に残る自国民を香港に避難させた。シャーロットと娘と孫たちもその中にいた。一家は香港で仮住まいの生活をしていたが、シャーロットは風邪を患い、同年9月26日に帰らぬ人となった。享年77歳であった。現在の長崎では、坂本国際墓地における夫ウィルソンの墓碑と、「南山手町並み保存センター」として移築保存されている旧南山手12番館のみがシャーロット・ウォーカーを偲ぶ。2015年1月


ep23

南山手秘話

EPISODE 23

日本初のボウリング場

 安政開港後、西洋からいち早く伝えられた屋内レクリエーションのひとつにボウリングがある。文久元年(1861)6月22日発行の英字新聞「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」の中に、「ヒロババ・ストリート」(現在の広馬場商店街)に「インターナショナル・ボーリング・サルーン」開設を知らせる小広告が載っているが、この施設が日本最初のボウリング場と呼ばれるゆえんである。後に、居留地に新しく建設されたホテルや酒場では、ボウリングレーンの設置はあたりまえになった。その一つは、ドイツ人、ヨハネス・ウムラントが明治6年(1873)、南山手甲10番地に開設した酒場兼ボウリング場である。彼が同14年(1881)に他界した後、南山手甲10番地の施設は「ナガサキ・ボウリング・クラブ」として生まれ変わり、同37年(1904)、フレデリック・リンガーが土地と建物を競売で落札した。同年6月4日、クラブの新会長ジョセフ・デインティを含む40人が集まって新たな施設の発足を祝った。南山手甲10番地のボウリング場は太平洋戦争のころまで存続したが、戦後はリンガーの子孫が土地と建物を売却し、その跡地は現在駐車場となっている。毎日多くの観光客が行き来するオランダ坂の途中に、「ボウリング日本発祥地」の古びた祈念碑が目に留まる。しかし、それは南山手甲10番地の「ナガサキ・ボウリング・クラブ」の跡地を示すもの。実際の発祥地はやはり上記の広馬場商店街である。2015年2月


ep24

南山手秘話

EPISODE 24

旧グラバー住宅の運命

 旧グラバー住宅は、文久3年(1863)に建設された当初から、居留地でもっとも美しく立地条件の良い家であった。南山手3番地に位置するその前代未聞の建物は、鍋冠山の中腹から長崎港を見下ろす、まるで貿易と国際交流をつかさどる新時代のお城のようであった。トーマス・グラバーは明治10年(1877)に三菱の顧問として東京に移住するまで、南山手3番館を自宅として利用していた。永久に長崎を離れるつもりだったのか、彼は地元の英字新聞に家の売却広告を出したが、結局は売らずに所有件を持ち続け、長崎にいないときは他の外国人居留者に貸し出すようになった。その後、トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、明治42年(1909)から昭和14年(1939)に長崎三菱造船所に売却するまでグラバー邸を自宅としていた。進駐軍の撤退後、三菱長崎造船所は旧グラバー住宅の所有権を取り戻し、しばらくの間は社員クラブとして利用したが、同32年(1957)には、造船所の前身である長崎溶鉄所の100周年記念として長崎市に寄贈した。長崎市はその翌年にこの家を一般公開した。昭和36年(1961)、日本政府が旧グラバー住宅を重要文化財として指定し、その後13年間この優雅な建物は観光施設「グラバー邸」として注目を集め、また同49年(1974)にオープンした「グラバー園」の目玉となった。明治10年に東京へ移住したトーマス・グラバーが売却に踏み切ったのであれば、同邸宅はまったく違う運命をたどったことだろう。2015年3月


ep25

南山手秘話

EPISODE 25

悲運の倉場富三郎

長崎市役所に保管されている戸籍によると、トーマス・グラバーが明治3年12月8日(1871.1.28)、加賀マキという日本人女性との間に息子を授かったことが示されている。「富三郎」と呼ばれた子は少年時代を長崎と東京で過ごし、数年間のアメリカ留学を経て同25年(1892)に長崎へ戻ってきた。その後、日本の戸籍を取得し、公式に「倉場富三郎」と名乗った。倉場富三郎の温厚かつ几帳面な性格と語学力から、勤務先であったホーム・リンガー商会の様々な国際活動で役割を担った。重要な業績の一つは、汽船漁業会社を立ち上げて日本に初めてトロール船を導入し、20世紀初期の日本の漁業業界に革命を起こしたことである。彼の尽力もあり、長崎県は日本でも指折りの水産県に成長して現在に至る。国際理解を深めようとした倉場富三郎の努力とは裏腹に、昭和初期の長崎では戦時色が深まっていき、英米と関係ある人々は次第に肩身の狭い思いをするようになった。昭和14年(1939)、倉場は三菱長崎造船所に旧グラバー住宅を売り渡し、南山手9番館(現在の三菱南山手外国人社宅)に移住した。同20年(1945)8月9日、長崎の北部で原子爆弾がさく裂した時、倉場富三郎は家の中にいてその強烈な爆風を感じた。そして同26日に南山手の自宅で自らの命を絶ち、長崎とグラバー家の関係が悲劇的な結末を遂げた。終戦からわずか数日後に自殺したのは、単なる絶望感からでなく、戦いにおいて根本的にどちらの側にもつくことができない心の葛藤があったからだと考えられる。2015年4月


ep26

南山手秘話

EPISODE 26

晩年のフレデリック・リンガー

長崎の豪商フレデリック・リンガーは晩年、ほとんどの行事やビジネス活動から身を引き、南山手2番地の自宅でゆっくりと過ごすことを選んでいた。当時、長崎に住んでいたあるデンマーク人は、「リンガー氏は隠遁していて、ときどき昼食会に顔を出す以外は、長崎居留地の楽しい社会行事に参加しようとしなかった」と回想している。また、太り気味のリンガーは心臓病を患い、階段を登ることが困難になったので、自宅まで人力車が通れるような道をつくる必要があった。結果として、日本初期のアスファルト道が完成し、現在もその一部が残っている。オーストラリア国立図書館には、元ホーム・リンガー商会の職員であったウィリアム・ハーストンの以下の内容の手紙が保管されている。明治39年(1906)12月に大浦7番地のホーム・リンガー商会事務所で火事が起きた。消防士が鎮火に取りかかっている間、ハーストンは雇い主リンガーのもとに緊急事態を知らせに急いだ。家の中は真っ暗であった。若いイギリス人は焦りながらドアベルを鳴らしたが、返事はなかった。彼は再びベルを鳴らし、ようやく家の奥で光が灯ると、光がみえる窓に向かい、「社長、あなたですか?」と叫んだ。「だれだ?」窓の反対側でリンガーは怒鳴った。「ハーストンです、ハーストン」「いったいどうした?」「事務所が火事です、事務所が火事です!」と答えると「じゃあ鎮火したらもう一度知らせに来い」と、ベテランイギリス人商人はぶつぶついうと窓を閉めて灯りを消した。2015年5月


ep27

南山手秘話

EPISODE 27

美男子のリンガー兄弟

フレデリック・リンガーの次男シドニー・リンガーは父の死後にホーム・リンガー商会の後継者となり、南山手2番地の邸宅に妻と二人の息子と共に居を構えた。国指定の重要文化財としてグラバー園内に現地保存されている「旧リンガー住宅」である。シドニー・リンガーの息子たち、マイケル(大正2年(1913)生)とヴァーニャ(大正5年(1916)生)は子供時代を長崎で過ごし、イギリスの名門学校マルバーン・カレッジを卒業後、昭和10年ごろに日本へ戻り、長崎と下関の家業の後継者として新しい生活を始めた。マイケルとヴァーニャの若い兄弟は、ほこりを被った旧長崎居留地に新風を吹き込み、ホーム・リンガー商会と瓜生商会(下関におけるホーム・リンガー商会の支店)の活動に新たな期待を呼び起こした。リンガー家の庭師だった富田幾太郎の義理の娘である富田純子氏(故人)によると、地元の女の子たちは、美男子のマイケルとヴァーニャが近くを通り過ぎるたびにうっとりみとれていたという。家族アルバムの写真には、日本人の友人やナガサキ・クラブの先輩たちとともにポーズを取ったり、仮装舞踏会や料亭で遊んでいたりする兄弟の様子が捉えられている。戦後、歴史家のハロルド・S・ウィリアムズと文通したマイケル・リンガーは、当時外国人住民や旅行者に人気があった茂木のビーチホテルについて「独身時代の私と弟は、そこで中国から来た孤独な人妻や娘たちをもてなし、とても楽しい時間を過ごしたものだ」と回想している。2015年6月


ep28

南山手秘話

EPISODE 28

ロシア領事館の面影

長崎最初のロシア領事、アレクサンドル・フィリッペスが明治元年(1868)11月から南山手9番地(後17番地)で事務所を開設したが、同3年(1870)に実施された外国人人口調査によると、彼が長崎居留地に在住するたった1名のロシア人であった。明治9年(1876)、アレクサンドル・オラロブスキーがロシア領事に就任し、南山手甲5番地の自宅に領事館を開設した。長崎を訪れるロシア人が増加すると、領事館の敷地内にロシア海軍病院およびロシア正教会の教会が建立された。明治30年(1897)3月、ロシアの東洋艦隊軍艦7隻が長崎港に停泊し、その後も冬季には長崎に回航して避寒するのが恒例となった。同33年(1900)になると、ロシア人人口は142人に達し、他の欧米人人口を上回った。日露戦争の勃発により、長崎における日本とロシアの交流はほぼ停止状態になったが、戦後、南山手甲5番地の長崎ロシア領事館は復活し、ロシア正教会の日本人神父アントニイ高井が長崎における活動を再開した。その後、旧ロシア海軍病院跡地に長崎正教会の聖堂が建立され、太平洋戦争前夜まで存続した。ロシア革命後の大正14年(1925)、ザックハー・テル・アサチュロッフは最初の在長崎ソ連領事となり、領事館を南山手甲5番地から大浦海岸通りに面する大浦4番地(現ホテルニュータンダ所在地)へ移設した。昭和6年(1931)に帰任したアレクサンドル・マキシモフが領事館を南山手甲5番地に戻したが、翌年、長崎ロシア領事館の歴史に終止符が打たれた。2015年7月


ep29

南山手秘話

EPISODE 29

江頭邸かつての主

マリア園の脇から下の道路へと至る狭い石畳の坂道は「ドンドン坂」と呼ばれ、周囲に建つ明治期の洋風建築群と共に、異国情緒を今なお残している。雨が降ると流れが急なことから「雨のどんどん坂」とも呼ばれている。ドンドン坂を上る途中、保存状態の良い洋風2階建て住宅が目を引く。旧南山手22番地の裏手に建てられたこの明治の洋風建築は「江頭邸」と呼ばれ、現在も個人住宅として使われている。国選定の重要伝統的建造物群保存地区(南山手地区)を構成する伝統的建造物である。建設の経緯や元住民の詳細は不明だが、「ナガサキ・ディレクトリー」などの史料から、明治後期の10年間ほど英国人のヴァン・エス家が所有していたことが確認できる。トーマス・グラバーと同じ1838年に生まれたアーリ・ウィリアム・ヴァン・エス(Ary William Van Ess)は、オランダのロッテルダム出身。イギリス国籍を取得した彼は中国に渡り、明治2年(1869)からの5年間を北京イギリス公使館の護衛官として過ごし、同9年から36年までは煙台イギリス領事館の専属警官として業務に従事していた。イギリス人妻との間に3人の子供がいたが、何らかの理由で別れ、日本人女性小谷キズエと中国で結婚した。明治36年(1903)の退職後、妻キズエとその娘と3人で長崎にやってきて、南山手22番地に居を構えた。ヴァン・エス氏は大正2年(1913)10月、この住宅にて他界して坂本国際墓地に葬られた。享年74歳。妻キズエ氏は昭和36年(1961)、神戸にてこの世を去った。2015年8月


ep30

南山手秘話

EPISODE 30

ウォーカー邸の防空壕

太平洋戦争勃発のニュースが長崎に届くと、憲兵隊は、R・N・ウォーカー商会を閉鎖させ、同商会の日本人従業員および南山手乙28番地のウォーカー邸に務める使用人や庭師を家に帰した。ロバート・ウォーカー2世夫妻は日本国籍を保持していたので強制収容所行きを免れたが、憲兵や特高警察は反日行動を防ぐためにその一挙一動や隣人との接触を厳しく監視した。昭和18年(1943)10月、日本内務省は全国に防空壕建設の命令を出した。まず民間団体が崖、丘陵、建物の床下に、続いて家族単位でこれら防空壕を庭や家に掘り始めた。ロバート・ウォーカー2世も長崎市民としてその命に従った。翌年までに、南山手の自宅の庭の斜面に5人が十分収容できる2部屋分の防空壕を一人で掘り上げた。同20年8月9日午前11時、ウォーカー家は南山手乙28番地の庭に腰を降ろして自家製の野菜で簡単な昼食をとろうとしていた。そこへ飛行機の爆音が遠くから響いて会話が遮られた。見上げると、米軍機が町の上空高く飛びその後にパラシュートが落下してくるのがロバートの目に映った。直ちに妻と3人の子供を防空壕に避難させたが、自身はそうする間もなくまばゆい閃光が空を覆い強力な熱線が背中を打ち、奇妙なほどの静寂が数秒続いた後、非常に大きな爆発と激しい爆風が吹き荒れた。衝撃に動揺し防空壕の暗闇の中で家族は互いに抱き寄せ合った。その間も長崎の北部上空にきのこ雲が舞い上がり、日本に2発目の原爆を投下して機体を軽くした米軍機が長崎港の空高く傾斜して南方へ姿を消した。2015年9月


ep31

南山手秘話

EPISODE 31

ウォーカー氏の平和主義

昭和20年(1945)9月23日、連合軍の第一波が長崎港に到着し出島埠頭に上陸すると、捕虜の本国帰還、兵器没収、連合軍軍人の宿舎確保など複雑な作業に着手した。 連合軍はまもなく、南山手乙28番地に住み続けるロバート・ウォーカー二世一家は長崎に残る唯一の「外国人」であることを把握し、十分な食料や生活物資を与えた。ロバートにとって最もありがたかったのは、戦争勃発から味わえなかったスコッチウィスキーを部隊長が度々届けてくれることであった。戦犯に関する調査を進める中で、連合側は元憲兵など日本人容疑者を連れてきたが、ロバート・ウォーカー二世は決まってどの顔にも見覚えがないと答えたのであった。ウォーカー夫妻は長年の争いに疲れ果てていた。太平洋戦争前にうわべだけの国際親善への関わりを避けていたように、戦後も憎悪感や復讐心を煽ることには関わりたくはなかったのである。連合軍が去った後、ロバートとメーベル夫人は息子のアルバート、デニスと共に南山手乙28番地の住宅で静かな老後の生活を送り、日本の市民権をもつ英語名の住人として長崎では異彩を放っていた。ロバートは自宅のベランダで何時間も一人座って長崎港を見つめながら、過去の出来事や親戚、友人、仕事関係の全ての人々の顔をつくづくと思い出しながら隠遁生活を送っているようであった。昭和33年(1958)8月22日のロバート・ウォーカー二世の死は長崎の新聞でさえ取り上げなかったが、それが彼自身望んだことであったろう。2015年10月


ep32

南山手秘話

EPISODE 32

リンガーの搾乳場

明治元年(1868)、フレデリック・リンガーと同僚のエドワード・Z・ホームが独立し、グラバー商会の茶葉貿易を引き継ぐ形で「ホーム・リンガー商会」を立ち上げ、大浦地区に事務所と製茶工場にて開業した。ホームは間もなく英国に帰ったが、リンガーは社名を変えずに営業を続け、長崎における外国貿易の第一人者となった。ホーム・リンガー商会は多様化しながら拡大を続け、やがて明治期長崎の大黒柱へと成長した。フレデリック・リンガーのビジネス活動に関する記録は豊富に残されているが、個人生活や趣味の多くは歴史資料に間接的にふれているだけである。例えば、彼が家庭用のバターとチーズを作るための牛乳を確保するために搾乳場を運営していたことはあまり知られていない。明治26年(1893)、匿名の住人が近所に漂う悪臭の苦情を長崎県知事に伝えていたおかげで関連資料が残っており、その苦情に対して、リンガーは英国領事、ジョン・J・クインに以下のように弁明した。「私がヨーロッパに渡っていた間に当地で育っている家畜の数が自分の指示に反して適量を遥かに越えてしまったことを是非知っていただきたいと思います。これまでに隣人たちから苦情を受けたことは一切ありませんでしたが、おそらく今回の苦情はこの無計画な家畜の増加によるものだと考えています。現在家畜の量を減らす努力を始めており、今ある全ての苦情を取り除くために全力で取り組ませていただきます。」搾乳場の場所は不明だが、もともとはリンガー所有の土地で、現在はグラバー園第二ゲートの近くにある「リンガー公園」の辺りだったと考えられる。2015年11月


ep33

南山手秘話

EPISODE 33

フューレ神父の帰国理由

文久3年(1863)に来崎したパリ外国宣教会の宣教師ルイ・テオドル・フューレは、南山手に土地を購入して司祭館を建てた。大浦天主堂の建設に取りかかったが、完成を見届けずにプティジャン神父に引き継いで帰国。理由は、キリシタン迫害が続く日本での宣教活動に失望したからとされるが、実際は大浦天主堂の吊り鐘やその他の備品を調達するためだったと考えられる。パリ外国宣教会本部に保管されている資料によると、フューレ神父が帰国中にフランス貴族からの資金援助を受け、故郷ル・マン市のボレー工場から吊り鐘を二千フランで注文したという。鋳工師のボレー親子は、フランスで鋳工業だけでなく、自動車産業での先駆的な役割も果たしたことで有名である。父のアメデ・ボレーは、蒸気の力で動く革命的な自動車を開発し、そのあとを継いだ長男アメデは12人乗りの蒸気自動車「オベイサント号」をル・マンからパリまで18時間で走らせ、首都でセンセーションを巻き起こした。今日、世界三大カーレースのひとつであるル・マン24時間耐久レースが毎年開催されるル·マン市内にはボレー親子にちなんだ「ボレー大通り」がある。一方、親子によって鋳造されたブロンズの吊り鐘は、日本人信徒が発見された慶応元年(1865)、大浦天主堂の鐘楼に設置され、150年経った今も現役で鳴り続けている。信徒発見の知らせを受けたフューレ神父は再び長崎に上陸したが、明治2年(1869)にフランスへ帰国して故郷で余生を送った。2015年12月


ep34

南山手秘話

EPISODE 34

悲運のリナ・リンガー

フレデリック・リンガーの1人娘リナ(Lina)は明治19年(1886)に長崎で生まれた。イギリスでの学校教育を終えて帰ってきた彼女は、父の猛反対を押し切って、英字新聞「ナガサキ・プレス」の記者を務めていたウィルモット・ルイスと結婚。ショックを受けたリンガーは突如イギリスへ帰国し、同年の秋に故郷のノーリッジでこの世を去った。その後、リナは長女を出産し、ウィルモットは「マニラ・タイムズ」紙の記者となり、家族とともにフィリピンに引っ越した。マニラでは次女が生まれ、一家は幸せな日々を過ごしていたが、大正5年(1916)、ウィルモットは第一次世界大戦を取材するためにフリージャーナリストとなって単身ヨーロッパへ渡った。ウィルモットはフランス政府から勲章を受け、さらに大正9年(1920)年に「ザ・タイムズ」紙のワシントン特派員という名誉ある地位を得てアメリカへ移住した。一方、リナは南山手14番地の実家(旧オルト住宅)に戻り、母親と兄弟に支えられて静かに暮らした。娘たちは南山手16番地の聖心女学校(現マリア園所在地)に通学した。大正14年(1925)、リナは夫の不倫を原因として、英国最高裁判所に離婚申請書を提出。この件を担当した裁判長は離婚を認め、一切の反論をしなかったウィルモットに対し、慰謝料と娘たちの養育費の支払いを命じた。しかし、ウィルモット・ルイスはほどなくしてこの重荷の大部分から免れることになった。それは、4年後にリナが43歳の若さで他界したからである。彼女の早過ぎる死は「悲しみ」が原因だったと子孫はいう。2016年1月


ep35

南山手秘話

EPISODE 35

長崎伝統芸能館の秘話

グラバー園の出口には、「長崎伝統芸能館」という現代的な建物がある。来園者が旧グラバー住宅から下って来ると、この建物のドアをくぐって「長崎くんち」に関する映像や展示物のある広いホールを通過する。この敷地は、元々居留地の中にあった南山手4番地の細長い区画である。初めに永代借地権を取得したのは、トーマス・グラバーの弟たちのジェームズとアルフレッド。昭和8年(1933)にはリンガー家が土地を購入し、外国人住民の紳士社会組織である「ナガサキ・クラブ」に2階建ての木造建築を貸した。南山手4番地を含むリンガー家が保有していた土地のほとんどは、太平洋戦争中に敵国財産として日本政府により売却された。長崎近くの香焼島で造船所を運営していた川南工業は、大浦7番地のホーム・リンガー商会の建物に事務所を移し、川南家の人々は南山手にあるリンガー家の2軒の邸宅(現在の旧リンガー住宅と旧オルト住宅)に居を構えた。一方、南山手4番地の建物は日本軍の救護施設となった。かつては欧米人たちが庭でくつろぎながら眺めていた長崎港の景色は、警備軍の双眼鏡や侵入者への発砲に構える機関銃の照準機を通してみられていた。戦後に長崎へ戻ってきたシドニー・リンガーは、南山手4番地の土地と建物を長崎県共済組合に売り渡した。その後、同組合の宿舎が建てられ、「南山手荘」として長年親しまれた。昭和56年(1981)にその跡地に建設された長崎伝統芸能館は、去年も100万人以上の来園者を迎えた。2016年2月


ep36

南山手秘話

EPISODE 36

最初のフランス領事

長崎居留地は、大村藩の領地だった戸町村大浦郷に開設された。万延元年(1860)に第1期の造成工事が完成すると、イギリス、アメリカ、ポルトガルおよびフランスの領事が借地する居留者のリストを作成した。当時のフランス領事はフランス人ではなく、ジャーディン・マセソン商会代表のスコットランド人商人、ケネス・R・マッケンジーだった。マッケンジーは、安政開港の数ヶ月前から来崎し、大浦郷妙行寺近くの民家を借りていた。開港当時から文久元年(1861)6月まで、彼はフランス領事代理を務め、現在は大浦天主堂所在地にあたる借家敷地に旗竿を立ててフランス国旗を揚げた。文久2年(1862)、フランス人医師レオン・デューリーが正式な長崎フランス領事として就任し、南山手の住宅に領事館を移した。しかし、デューリーは明治3年(1870)に京都へ移住し、同年にプロイセン・フランス戦争が勃発したために領事業務が一時停止された。その後、転々と場所を変えていた長崎フランス領事館は、永久的な設置場所が決まらないまま、明治41年(1908)に閉鎖され、イギリス領事がフランス領事の業務を兼務するようになった。大正9年(1920)ごろから太平洋戦争までの間、長崎在住のフランス人商人が母国政府の代表として職務を果たし、東山手甲13番地の自宅(現存)が最後の領事館となった。一方、最初の長崎フランス領事を務めて帰らぬ人となったケネス・R・マッケンジーは、大浦国際墓地で静かに永眠している。2016年3月


ep37

南山手秘話

EPISODE 37

日本初のダイナマイト実演

明治14年(1881)2月、トーマス・グラバーとフレデリック・リンガーが新たな共同作業に取り組んだ。今回の目的は、日本初のダイナマイトのデモンストレーションを行うことであった。実演の前日、リンガーはイギリス領事に手紙を送り、長崎県知事に通知するよう要請した。長崎を訪問していたノーベル産業の専門家が、南山手のテニスコートと小型船を使って港内でダイナマイトの爆破実演を行うという内容であった。2月9日午後、天気にも恵まれ多くの日本人や外国人が集まった。専門家が一連の実演を行いダイナマイトの正しい取り扱い方とその想像を絶する爆発力、また通常の状態での安全性を示した。ダイナマイトの使用が日本の鉱業界に画期的な変化をもたらし、石炭を始め様々な砿物の産出高を上げることは明白であった。その後、トーマス・グラバーはダイナマイトの一部を自分用に残し、自宅の庭に井戸を掘るために使った。この事実は、近所の大浦天主堂のフランス人神父たちがイギリス領事に騒音の苦情を伝えたため、歴史に残っている。イギリス領事の叱責を受けて、グラバーは教会に隣接する羅典神学校の生徒たちが、南山手においてより大きく長期間にわたる騒音源となっていることを指摘し、「私たちの持つ敬虔な信仰心から、リンガー氏と私は以前からこれについての苦情は控えておりました」とくぎを刺した。その後、東山手の切り通し(オランダ坂)の開削工事など、ダイナマイトは発破として広く活用されるようになった。2016年4月


ep38

南山手秘話

EPISODE 38

ウィルソン・ウォーカー2世の決断

日本の海運業に貢献して長崎で余生を過ごしたウィルソン・ウォーカー船長は、一人の息子と5人の娘の父だった。日本で生まれた息子のウィルソン2世は、イギリス留学後に帰崎し、両親が経営していたクリフ・ハウス・ホテルの支配人となった。しかし、明治40年(1907)ごろ、ウィルソン・ウォーカー船長と一人息子の親子関係に亀裂が入ってしまった。子孫によると、その原因は息子が歓楽街で働く日本人女性との結婚を強く望んだからである。その話を聞いたウォーカー船長は激怒し、ホテルを売るぞと脅しをかけたという。結果として結婚が延期され、ホテル売却の話も取り下げられたが、翌年ウィルソン2世が結婚を貫く意思を表した時、父は息子を勘当し、そしてウォーカー家で二度とその名前を口にすることを許さなくなったのであった。ウィルソン2世は婚約者と共にこっそり長崎を出て満州へ渡り、安東にある中国海事税関に就職した。息子が去った後、ウォーカー船長はクリフ・ハウス・ホテルの経営を妻シャーロットに任せ、南山手12番の家で静かに引退生活を送っていた。我が家のベランダでくつろぎ、港を見下ろし、娘たちが学校を卒業して花嫁修業に励む姿を見守り、居留地の社会活動には時折参加した。大正3年(1914)秋、ウィルソン・ウォーカー船長は病に倒れ、家族に看取られて亡くなった。69年の生涯のうちの46年間を日本で過していた。母とは連絡を取り合っていた息子のウィルソン2世も大急ぎで長崎に戻り、父の最期に間に合った。2016年5月


ep39

南山手秘話

EPISODE 39

夢の南山手12番地

昭和40年(1965)ごろに発行された左の絵はがきは、開発ラッシュで消えゆく前の南山手界隈を鮮明にとらえている。大浦天主堂の正面階段から洋館群を屋根越しに長崎港を撮影したものである。当時、大浦天主堂は国宝の指定を受けていたが、毎日のミサはそのまま行われていた。門前の土産品店が時代の移り変わりを感じさせるが、東急ホテル(現在のANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル)やその他の近代建築がまだ現れておらず、煙突を持つ居留地時代の洋風建築が残っていたことが分かる。この辺りは旧南山手12番地。今では新しいカトリック大浦教会が立つ場所だが、居留地時代は多くのイギリス人やロシア人が住んでいた閑静な住宅街であった。日本郵船会社のイギリス人船長で、キリンビールの筆頭株主でもあったウィルソン・ウォーカーも長年、家族共々ここに住んでいた。絵はがきが発行されたころ、旧ウォーカー住宅とウォーカー夫人がかつて経営していたクリフ・ハウス・ホテルの建物はそれぞれ、雨森病院と三上工作所としてまだ利用されていた。東急ホテルの前身である11番地のベル・ビュー・ホテルは大正10年ごろに廃業し、澤山家の豪邸がホテルの跡地に建設された。戦後になると、澤山邸は「異人館」という観光施設として公開されたが、グラバー園が開園したと同じ昭和49年(1974)に新しいホテルの敷地として再開発された。その後、旧南山手12番地は土産品店がひしめき合う観光地の門前町として賑わってきたが、往年の街並みと情緒は残念ながら過去の夢となった。2016年6月


ep40

南山手秘話

EPISODE 40

南山手乙9番館の真実

松が枝町に居留地時代の面影を伝える大きなレンガ造り倉庫があり、隣の旧南山手乙9番地には美しい2階建洋風住宅がたたずんでいる。庭に設置された説明板には、ロシア人実業家G・ナパルコフが明治中期に同住宅を建設したと記されている。しかし、領事館記録などを見ると、明治5年(1872)からイギリス人荷揚げ業者チャールズ・サットンが南山手乙9番地の借地権を保有していたことが分かる。英字新聞の発行人でもあった彼は、その数年前、長崎の路地裏で浪人に襲われ左腕を切り落とされるという経歴の持ち主だった。明治17年(1884)年から、サットンの同僚アーサー・ノーマンが南山手乙9番地の借地権を譲り受け、同25年(1892)にサットンが亡くなった後、英字新聞の経営も引きついだ。これらの史実からみて、現存する住宅の建築主は上記のナパルコフではなく、サットンまたはノーマンだったと推定できる。明治31年(1898)、日本郵船会社(NYK)の元船長ロバート・N・ウォーカーが家族とともに南山手乙9番館に居を構え、同35年(1902)に現存するレンガ造り倉庫を隣に建てた。その後、ウォーカーの次男ロバート・ウォーカー2世が南山手乙9番地の土地と建物を売り、昭和10年(1935)から中村家の住居となった。平成4年(1992)、長崎市が老朽していた建物を買い取り、修復工事を行った。現在は、美術館として有効に活用されているが、元住人たちのことはほとんど忘れられている。2016年7月


ep41

南山手秘話

EPISODE 41

狂人のアーサー・ノーマン

イギリス人のアーサー・ノーマン(Arthur Norman)は明治8年(1875)ごろに来崎し、20年以上にわたり、英字新聞編集者、パブリックホール(居留地公民館)支配人およびナガサキ・ボウリング・クラブ会計係として活躍した。前任者のチャールズ・サットンから英字新聞「ライジング・サン・アンド・ナガサキ・エクスプレス」の編集を引き継いだ彼は、社説を通して長崎居留地に関連する様々な出来事や問題について博学な意見を表明した。自宅は、下り松(現在の松が枝町)の印刷所裏手の南山手乙9番館(現存)にあった。ノーマンは、明治18年(1885)に創設されたナガサキ・フリーメイソン・ロッジにも中心的な役割を果たした。印刷所の2階を集会所としてロッジに貸し、フリーメイソンのマークを刻んだ門柱を入り口に設置した。その後、彼はフリーメイソン・ロッジの事務係を務めた。しかし、仕事のストレスに耐えかねて、ノーマンは次第に神経衰弱に陥り、奇妙な行動をとるようになった。明治30年(1897)、調査を行ったイギリス領事が医者の診断に基づきノーマンを強制入院させ、オークションにより彼の財産を売却。英字新聞に掲載されたオークション広告は、「A・ノーマン氏、狂人」と題されていた。同年11月、香港の精神病院に収容されたアーサー・ノーマンは帰らぬ人となった。昭和30年代、下り松(松が枝町)47番地にあった元印刷所の洋風建築は取壊されたが、表の門柱だけが保存され、グラバー園に移され現在に至る。しかし、説明板にはアーサー・ノーマンの名前がない。2016年8月


ep42

南山手秘話

EPISODE 42

キリンとグリフィン

旧グラバー住宅の玄関に入ると一対の狛犬が目を引く。東京のグラバー邸で撮影された写真にこの狛犬が写っていることから、トーマス・グラバーが東京の自宅に置いていたことが確認できる。説明板には、「この狛犬は今日のキリンビール社のラベルのもとになった」と書かれている。トーマス・グラバーとその仲間は明治21年(1888)、キリンビールの前身会社であるジャパン・ブルワリー・カンパニーを横浜で創設したことも、グラバーが現在も使用されているラベルを創業の翌年に提案したということも史実である。しかし、キリンを描いた画家の名前も、ビールのシンボルにこの奇獣を選んだ経緯も不明。ましてや、狛犬がモデルになったことを示す証拠はどこにも見当たらない。グラバーが狛犬ではなく、麒麟とよく似た西洋の奇獣「グリフィン」からラベルのヒントを得たと考えられる。中国の神話に現れる霊獣である麒麟は、体型と顔はそれぞれ鹿と龍に似て、牛の尾と馬の蹄を持つ。一方、グリフィンはライオンの胴体に鷲の頭と羽を持っており、「西洋版の麒麟」と呼んでも差し支えないだろう。イギリスにおけるビール業界の老舗であるフーラー社は、グラバーが子供のころからロンドン郊外で営業しており、グリフィンを創業当初からロゴマークに使用。現在でも「ロンドン・プライド」などイギリスで最も有名なビールをつくり続けている。今や世界中に知られるキリンビールのラベル。麒麟がラベルに登場した経緯に関するさらなる研究が期待される。2016年9月


ep43

南山手秘話

EPISODE 43

炭坑技師の急逝

旧南山手乙27番館は南山手に現存する数少ない幕末の洋風建築。元々トーマス・グラバーの弟アレクサンダーが住んでいたが、グラバー商会倒産後、ここに住んだ人々の中にはスコットランド人ジョン・ストーダット(John Stoddart)がいた。エジンバラ大学工学部を卒業した彼は、明治11年(1878)に高島炭坑の技師として来崎。同炭坑が三菱経営となった明治14年(1881)、ストーダットは監督炭坑技師に抜擢され、長崎県における炭坑開発に大きく貢献していった。ストーダットは明治23年(1890)に結婚して翌年からイギリス人の妻とともに南山手乙27番館に居を構えた。同年、若い夫婦はクリスマスの祝日を楽しく過ごし、ストーダットは正月早々に商用のため上海へ出発した。1月10日の夜に長崎へ帰ってきたとき、彼は具合が悪く熱にも侵されていた。しかし、友人たちの助けを断り高台にある自宅まで寒い夜の中をのぼり帰った。驚いた妻はすぐに医者を呼んだが、その甲斐もなく翌日に急性肺炎で息を引き取った。享年36歳。墓碑は坂本国際墓地に今もたたずんでいる。ストーダット夫人が長崎を去った後、南山手乙27番館はドイツ人船長ヨハン・ジェセルセン一家の住宅となったが、大正7年(1918)ごろから大浦界隈でジャパン・ホテルを経営していた清水新太郎の所有となり、昭和10年代まで外国人専用の賃貸住宅として使われた。現在、旧南山手乙27番館は「南山手レストハウス」として公開されており、独特な和洋折衷様式を伝えながら過去の悲話をささやき続けている。2016年10月


ep44

南山手秘話

EPISODE 44

忘れられた初代所長

旧長崎居留地の最も有名な洋風建築のひとつでる南山手25番の邸宅はもはや長崎にはなく、愛知県のテーマパーク「明治村」に移築保存されている。記録によれば、この区画の最初の借地権保持者は幕末期に来崎したアドリアン商会のオランダ人従業員だが、明治村に移築され登録有形文化財となっているバンガロー式木造住宅を建てたのはスコットランド人技師ジョン・F・コルダー(John F. Calder)である。彼は慶応3年(1867)に来日し、長崎のボイド商会に、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際、初代所長として請われて再び長崎の地を踏んだ。当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んだが、明治22年(1889)に南山手に居を構えた。大阪造船所時代に「ドライドック」を建造、また長崎造船所では日本初の鉄製汽船で昭和37年(1962)まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与した。コルダーは、長崎におけるフリーメイソン・ロッジ(集会所)の初代グランドマスター(ロッジ長)にも選ばれ、居留地社会の中で活躍していたが、明治25年に癌を患い、45歳の生涯を長崎で終えた。現在、南山手25番地には近代的なマンションが立っており、旧24番館を含む雨のどんどん坂界隈の数少ない建物が往時の情景を伝えている。一方、三菱長崎造船所の創立と発展に貢献したスコットランド人技師ジョン・コルダーは長崎の坂本国際墓地に静かに眠むっている。2016年11月


ep45

南山手秘話

EPISODE 45

最後の大型レンガ倉庫

松が枝町に居留地時代の面影を伝える大きなレンガ倉庫が目につく。現在は製綱工場として使われているが、その意外な来歴は以下の通りである。場所は江戸時代から馬小屋が立ち並んでいたが、長崎居留地の開設に伴い「下り松44番地」として区画され、外国人が借地権を保持するようになった。英字新聞「ナガサキ・プレス」の明治31年(1898)3月31日号に載った「貴重な井戸と数件の馬小屋などを含む」という同区画の売却広告から、それまで馬小屋のままで利用されていたことが伺える。下り松44番地の借地権をこの時点で獲得したのは、日本郵船会社の元船長ロバート・N・ウォーカー。荷揚げ業者として開業していた彼は、家族共々隣の南山手乙9番館に居を構えていた。明治35年(1902)、荷物の一時保管を目的としてレンガ倉庫を建てたが、翼々年、長崎のオークションで清涼飲料水製造機一式を購入し、建物内に「バンザイ清涼飲水会社」を開設した。大正8年(1919)に閉鎖されるまで、同工場はジンジャーエールなど炭酸飲料を独自のラムネ瓶で生産した。大正14年(1925)、事業を引き継いでいたウォーカー船長の次男ロバート・ウォーカー二世は工場の機材とレンガ倉庫を売りに出し、翌年、長崎の実業家中部悦良に譲った。この取引により、幕末から続いていた永代借地権が抹消された。その後、レンガ倉庫は大日本製氷、日本食料工業、日本水産、三菱重工業などの手に渡り数奇な運命をたどった。昭和28年(1953)、大阪の前岡製綱社がレンガ倉庫を購入して子会社として「寶製綱株式会社」を開設し、現在に至る。2016年12月