旧グラバー住宅 | グラバー園公式ウェブサイト

旧グラバー住宅


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貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1961年(昭和36年)6月7日、主屋・附属屋が国の重要文化財に指定。
指定:国指定重要文化財(昭和36年6月7日)
所在地及び所有者:長崎市南山手3番地 長崎市 (現在地、南山手町8-1)
建築年代:1863(文久3年)
構造形式:木造平屋建、ペンキ塗、寄棟造桟瓦葺、ベランダ付
 

 1859年(安政6年)、長い鎖国が終わりを告げ長崎・横浜・箱館(函館)の3港は世界に門を開きました。同時に諸外国の商人たちは大浦居留地の周辺に住居を構え貿易を営み始めます。これら貿易商人の一人、英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover 1838~1911)の住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ、現存する日本最古の木造洋風建築です。
 安政の開国直後の1859年、グラバーは弱冠21歳で上海を経由して来日、ベテランの外国人商人たちの中にあって茶やその他の産物、武器船舶などを取り扱う商人として仲間入りをしました。やがて彼は、日本の再建に外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始めました。
 それには日本の若い志士たちに国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋しています。こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が少なくありません。
 次にグラバーは、産業立国の大方針を以て当局に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓しました。1865年(慶応元年)わが国の鉄道開通の7年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させました。また、18 1868年(明治元年)には、小菅に近代式修舟場を設け、1869年(明治2)には高島炭坑を開設するなど、日本の近代化に大きく貢献しました。
 その後、トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、1939年(昭和14年)に三菱重工業株式会社長崎造船所(当時)に売却するまでこの家を自宅として利用していました。1957年(昭和32年)、三菱造船株式会社(三菱重工業株式会社から改称)長崎造船所開設100周年記念として長崎市に寄贈され、翌年から一般公開されました。

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トーマス・グラバー
(Thomas B. Glover, 1838-1911)
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トーマス・グラバーとその家族。
グラバー邸前の庭にて(明治35年頃)
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グラバー邸の温室。邸の愛称「IPPONMATSU」
の由来となった松の木がそびえる。
 

 

 

トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)

造船、採炭、製茶などの貿易を通して我が国の近代化に貢献
国産ビール育ての親、キリンのヒゲはグラバーのヒゲ

スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時、開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。幕末の激動の時代の中、志士達を陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。また明治以降は純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名されましたが、その性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だったようです。
 同様に家族に対しても、妻ツルとの間に子供をなし、温かな家族をつくり、仲むつまじく日本で終生を過ごしました。1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは現在でも長崎市の坂本国際墓地でツルと、息子の倉場富三郎夫婦とならび眠っています。

 

倉場 富三郎(1870-1945)

我が国にトロール漁法を導入し、長崎の水産業近代化に貢献
不屈の大作「グラバー図譜」の制作

グラバーには倉場富三郎、ハナという二人の子どもがいました。倉場富三郎はアメリカ留学から長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に入社すると、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献しました。底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと思い、私費を投じて5人の画家に魚の絵を描かせ、25年の歳月をかけてグラバー図譜を完成させました。旧スチイル記念学校、旧グラバー住宅の奥の廊下にその一部が展示されています。
 混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、内外倶楽部という外国人との親睦団体をつくり、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ場の設立にも力を注ぎました。しかし第二次世界大戦の最中、同じ混血の境遇に生まれた妻ワカが急死。やがて長崎に原爆が落とされ、絶望のなか終戦を迎えた富三郎は、その11日後の8月26日に自ら命を絶ちました。
 遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていました。