グラバー園 GLOVER GARDEN Nagasaki ENGLISH CHINESE KOREAN
長崎県長崎市南山手町8-1 095-822-8223
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リンガー邸宅 知る 異人たちも魅せられた南山手の歴史
日本最古の木造洋館も・・・見所いっぱい
利用する ブライダル、パーティにも利用できる!
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時は幕末、外国人たちの街だった、南山手の丘。
トーマス・ブレーク・グラバーロバート・ネール・ウォーカーウィリアム・オルトフレデリック・リンガー倉場富三郎岩崎彌之助
 ペリーの浦賀入港から5年後の安政5年(1858年)、諸外国は通商貿易を求めて相次いで来航し、幕府に開国を迫りました。幕府はついに開国へと踏み切り、英国・アメリカをはじめとした5ヵ国と修好通商条約を締結しました。これにより翌、安政6年(1859年)、長崎は横浜・函館ともに開港され、外国との自由貿易時代へと突入することとなりました。
長崎にも外国の商人の住む家や活動拠点となる場所を確保するため、幕府は急いで埋め立てや造成をはじめ、東山手・南山手・大浦・小曽根・梅ヶ崎・新地・出島地区一帯に外国人居留地が形成されていきました。そして居留地が廃止され、外国人が日本中に雑居できるようになるまでの約40年間、長崎は新しい時代の自由貿易港として繁栄していったのです。

 居留地は、海岸に近いほうから、上等地・中等地・下等地の3つに分けられ、借地料の高い上等地には貿易のために訪れた外国商人たちの商館や倉庫、その背後の中等地にはホテルや銀行・病院・娯楽施設、山手の下等地には住宅・教会・領事館などが建設されました。山手のなかでも、南山手が住宅地として利用されたのに対して、東山手は当初「領事館の丘」と呼ばれ、ポルトガルやプロシアなど、各国の領事館が建ち並びました。こうしてさまざまな種類の洋館が建てられ、大浦バンドと呼ばれる海岸通りを中心とした居留地独特の街並みが形成されていきました。

 明治32年(1899年)に外国人居留地は廃止されましたが、その後も洋館は残り、長崎の街に異国情緒を醸し出していました。そして時は流れ昭和45年(1970年)、次第に少なくなってきた洋館を保存しようと、旧グラバー住宅などがあった南山手の丘を整備。市内に現存していたさまざまな洋館を移築して、グラバー園が誕生しました。それ以来、グラバー園は長崎を代表する観光地として多くの人々に愛され続けています。



日本の産業に貢献し、新しい時代への扉を開いた長崎居留地の人々。

トーマス・ブレーク・グラバー 1838〜1911
造船、採炭、製茶輸出業を通して、わが国の近代化に貢献。国産ビール育ての親、麒麟の髭はグラバーの髭。
トーマス・ブレーク・グラバーとグラバー邸 スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時、開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。幕末の激動の時代の中、志士達を陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。また明治以降は純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名されましたが、その性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だったようです。
 同様に家族に対しても、妻ツルとの間に子供をなし、温かな家族をつくり、仲むつまじく日本で終生を過ごしました。1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは現在でも長崎市の坂本国際墓地でツルと、息子の倉場富三郎夫婦とならび眠っています。
グラバーと家族

ロバート・ネール・ウォーカー 1851〜1941
わが国の海運業界の近代化と清涼飲料のパイオニア。
 イングランド出身。1898年に長崎でウォーカー商会を設立。日本の海運業に大きな業績を残し、長崎外国人居留地の実業界における中心的人物として活躍しました。
たいへんな親日家で、自ら設立した清涼飲料水メーカーの商品にバンザイサイダー、バンザイレモネードとネーミングを付けたほど。晩年はカナダへ移住し、息子のウォーカー・ジュニアに事業を譲与しました。
キリンビールの前身を設立 ロバート・ネール・ウォーカーの兄ウィルソン・ウォーカーは、グラバーとともに「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」を創立。これが現在の麒麟麦酒株式会社の前身となりました。



 イングランド出身。開国とともに、いち早く長崎にわたりオルト商会を設立。長崎の大浦慶と提携して、九州一円から茶を買い求め輸出業を行いました。製茶業で巨額の利益を得た彼が1864年に建てたオルト邸は本格的洋風建築ですが、これを建築したのは大浦天主堂も手掛けた小山秀。「長崎は本当に美しいところで、これ以上美しい所を私は知らない」彼の妻エリザベスは、後の回想録に長崎の印象をこう書き残しています。

オルトのパートナー大浦慶 オルトが製茶・販売の事業で手を結んだ大浦慶は、長崎屈指の油問屋に生まれましたが16歳の時に大火事に見舞われて家が傾いてしまいました。しかし、25歳の時に茶の貿易をはじめ見事に家を再興させました。彼女は長崎三大女傑の一人として知られています。



 イングランド出身。1864年頃に来日しグラバー商会に勤めた後、1868年英国人のホーム氏と共にホーム・リンガー商会を設立。居留地の外国人と市民の交流の場、内外倶楽部を設立し、長崎の上水道建設・外国貿易・代理店・製茶・製粉・発電など幅広い事業を行いました。彼が1898年に大浦海岸通り(旧香港上海銀行長崎支店横)に建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳せました。


倉場富三郎わが国初のトロール漁業の導入と、不朽の対策「グラバー図譜」を作成して、水産県長崎の近代化に貢献した。
 グラバーには倉場富三郎、ハナという二人の子どもがいました。倉場富三郎はアメリカ留学から長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に入社すると、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献しました。底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと思い、私費を投じて5人の画家に魚の絵を描かせ、25年の歳月をかけてグラバー図譜を完成させました。旧スチイル記念学校、旧グラバー住宅の奥の廊下にその一部が展示されています。
 混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、内外倶楽部という外国人との親睦団体をつくり、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ場の設立にも力を注ぎました。しかし第二次世界大戦の最中、同じ混血の境遇に生まれた妻ワカが急死。やがて長崎に原爆が落とされ、絶望のなか終戦を迎えた富三郎は、その11日後の8月26日に自ら命を絶ちました。
 遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていました。
左から富三郎、グラバー、富三郎の妻ワカ
左から富三郎、グラバー、富三郎の妻ワカ

岩崎 弥之助
三菱の二代目社長として三菱財閥を作り上げた人物。
 三菱の創始者、岩崎彌太郎の弟である彌之助は、三菱の二代目社長として三菱財閥をつくり上げた人物です。兄の彌太郎とグラバーは長崎で深く関わっていますが、彌太郎亡きあとも、彌之助は終生グラバーと交友を続け、グラバーを三菱の相談役として招きました。旧スチイル記念学校には、岩崎彌之助とグラバーが並んで写っている写真があります。
岩崎彌之助とグラバー



レトロ写真館 500円で異人さんに変身!?レトロ衣装を着て写真撮影が出来ます

旧自由亭 2階は喫茶室。レトロな雰囲気で美味しいメニューをどうぞ。

マダムバタフライ オペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を演じた日本人オペラ歌手、三浦環。

長崎伝統芸能館 長崎くんちのビデオ上映や奉納する踊りの龍などを展示。長崎の伝統をお楽しみください。

花ごよみ 四季おりおり、色とりどりの花が咲き誇るグラバー園。四季を感じながら園内散策。

お問い合わせ:nagasaki@glover-garden.jp
TEL: 095-822-8223 FAX: 095-823-3359  〒850-0931 長崎県長崎市南山手町8番1号 グラバー園管理事務所
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